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【ソ連崩壊20年 解けない呪縛】第3部 強権への序章(上)
ロシアの初代大統領、故ボリス・エリツィン氏(1931〜2007年)が故郷ウラル地方・スベルドロフスク州の「名誉州民」になったのは、没後3年近くもたった昨年1月のことだった。州都エカテリンブルクに白い大理石のエリツィン像(高さ10メートル)が完成したのは、生誕80年にあたった今年2月である。
政権末期の1990年代末には支持率が数%にまで落ち込み、不人気だったエリツィン氏にようやく“再評価”の光が当たり始めたようにも見える。
2月のエリツィン像の除幕式にはメドベージェフ大統領が駆けつけ、「最も困難な時期に国の改革が行われ、今日の前進があることについて、ロシアはエリツィン氏に感謝すべきだ」と述べた。
ソ連解体と民主化の立役者、エリツィン氏は中央政界入りするまでの76〜85年、州の共産党委員会第1書記として地元発展に辣腕(らつわん)を振るった。
当時を知るエカテリンブルクの新聞記者、ベリャエフ氏(54)は「エリツィン氏は各地を精力的に飛び回り、住民や労働者と対話した。当時から、モスクワの党官僚とは全く違う言葉で話す政治家だった」と振り返る。
「エリツィン氏のおかげで90年代には中小ビジネスが発展し、言論の自由もあった」。ベリャエフ氏はこう語る一方で、「しかし現在のエリツィン再評価は住民に発したものではない。エリツィン関連の記事に寄せられる反響の9割はエリツィン批判だ」と話す。
■「安定」得た政権に危機感
「エリツィン氏に万一のことがあった時に備え、エカテリンブルク郊外の地下核シェルターに『臨時政府』を設ける準備も進められていたのです」
ロシア・エカテリンブルクにある民間学術機関、エリツィン・センターのキリロフ所長(63)は、ソ連末期の1991年8月にこんな計画があったことを明かす。
共産党守旧派が当時のゴルバチョフ・ソ連大統領を軟禁し、クーデターを試みた時のことだ。エカテリンブルクに州都を構えるスベルドロフスク州は、ロシア共和国大統領だったエリツィン氏の故郷である。
クーデターが4日目に失敗に終わるまで、エカテリンブルクでは、クーデター粉砕を呼びかけていたエリツィン大統領を支持するために連日、数万人がデモを続けた。ランディングページ「臨時政府」は、クーデター2日目にエリツィン氏が特使を通じて準備を指示したものだという。
85年に党中央に進出したエリツィン氏は、ペレストロイカ(改革)を打ち出すゴルバチョフ政権下で反主流の急進改革派として台頭。ゴルバチョフ氏が守旧派と改革派の板挟みになる中、ロシア共和国に大統領制を導入したエリツィン氏は大衆の支持を最大の武器に存在感を増していく。
そして91年8月のクーデターでゴルバチョフ氏の権威失墜とエリツィン氏の優位が決定的となり、歴史の歯車は12月のソ連解体へと急回転していった。
◆正当化された強権
国民がエリツィン氏を熱く支持したのはしかし、ここまでだった。
モスクワの独立系世論調査機関、レバダ・センターのドゥビン社会・政治研究部長(64)は「92年にはもうエリツィン人気が下がり始めていた」と話す。
ドゥビン氏は支持率急落の理由として、(1)「ショック療法」と呼ばれた急進的経済改革(2)共産党優位だった議会との不断の対立(3)第1次チェチェン戦争−を挙げる。特に「価格の自由化」と国有企業の「民営化」を柱としたショック療法は、ハイパー・インフレや貧富の格差急拡大を招いて強い反発を買った。
98年の金融危機と自身の健康悪化も重なり、エリツィン大統領は99年末、KGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチン氏(前大統領・現首相)を後継者に指名して退任。プーチン氏は「安定」を望む国民心理を逆手にとって強権統治を推し進め、それが多数派の支持も得ることになる。
◆あくまで政治主導
エリツィン氏は「ロシアを大事にしてくれ」と言い残してクレムリンを去った。エリツィン政権初期のナンバー2だったブルブリス元国務長官(65)は「大事にすべきロシアについて、プーチン氏の考え方は違った」「出来上がったのはプーチンの個人権力体制であり、プーチンを後継者に指名したことは大きな過ちだった」と話す。
政権が今になってエリツィン氏を“再評価”してみせるのは、90年代と2000年代の「断絶」を糊塗(こと)し、民主化を後退させた自らを正当化する思惑からだろう。ブルブリス氏は、一応の「安定」を得た政権が「停滞」を危惧し始めたことが改革者・エリツィンを見直す背景にあるとみる。
ただ、“再評価”はあくまでも上からの政治主導である。
エカテリンブルクから車で約9時間のベレズニキ。エリツィン氏の母校プーシキン第1学校の前庭には、詩人のプーシキンでもエリツィン氏でもなく、ロシア革命の祖レーニンの胸像がたつ。校史を紹介するミニ博物館の一室でエリツィン氏に関する展示は、数点の書籍と新聞記事だけだった。
20年前の6月12日、ソ連の中核だったロシア共和国で大統領選が行われ、当時のエリツィン共和国最高会議議長が当選した。直接選挙による指導者選出はロシア史上初めてだった。第3部は、民主化と改革への高まる期待が急速にしぼんでしまった、エリツィン政権の90年代を振り返る。膨大な不用品回収/って(遠藤良介)
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