相続はその本人がなくなってなら行うのが当然である。しかしどのような相続を行うかは、本人が生きている間に行うのが賢明だと私は考える。少なくとも私はそうしたい。自分が死んでから相続で子供たちがいろいろ面倒な話し合いはしてほしくない。できるならそういう話はできるだけ簡略化してほしい。しかし、面倒な話し合いになる程、私は遺産はあるのだろうか。
相続に関するトラブルは、その後の人間関係にまで影響を及ぼします。そのようなトラブルを無くすためには遺言書を作成することが望ましいのですが、その際いくつかの注意点があります。まず、自筆の遺言書の場合は日付を忘れてはいけません。全てを自分で記入し、署名と押印も必須です。公正証書遺言の場合は、二人以上の証人が必要になってきます。死後、大切な家族がもめないように、しっかりとした形での遺言書作成をおすすめします。
司法試験の年間合格者を3000人程度に増やすとした02年の政府方針に対し、日本弁護士連合会は30日、現状の2100〜2200人から削減するよう求める提言を公表した。09年に現状維持を求める提言を公表したが、削減を求めたのは初めて。具体的な削減数については「会内で意見が分かれた」として示さなかった。提言で日弁連は法曹人口の増員策で「弁護士だけが急増した結果、現実の需要とのバランスを欠き、新人弁護士の経験・能力の獲得に影響を及ぼしている」などと指摘している。
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12月20日号
菅首相は30日、首相官邸で社民党の福島党首と会談し、東京電力福島第一原子力発電所の事故に関連して、「原子力安全・保安院の体制を含めて議論する必要がある」と述べ、経済産業省と保安院の分離を検討する考えを示した。
今回の事故を受け、原子力の安全規制を担う保安院に関し、原子力を推進する立場の経産省の外局になっていることを踏まえて「安全面のチェックが甘かったのではないか」という指摘が出ている。民主党は、2009年の衆院選の政権公約(マニフェスト)でも、経産省と保安院の分離を前提に「原子力安全規制委員会を創設する」としており、事態が沈静化すれば、こうした方向で議論が進むとみられる。
また、首相は福島氏に「自然エネルギーの割合を20、30、40%と広げていきたい。自然エネルギーを応援する仕組みを考えたい」と語り、現在は9%の割合にとどまっている太陽光などの「再生可能エネルギー」の普及に努める考えを強調した。
枝野幸男官房長官は30日の記者会見で、福島第1原発の周辺海域で高濃度の放射性ヨウ素が検出されたことに対する魚介類への影響について「今の時点で今の数字にとどまるなら、影響は大きくないのではないか」と述べた。
その上で「海のモニタリングを強化している。万が一にも広範な地域で高濃度が検出される場合は、しっかりと把握できるよう態勢を強化できないか努力している」と強調した。
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具象彫刻の第一人者で東京造形大名誉教授の佐藤忠良(さとう・ちゅうりょう)さんが30日午前8時16分、老衰のため死去した。98歳。葬儀は近親者のみで営む。喪主は長男達郎(たつろう)さん。
宮城県大和町生まれ。東京美術学校(現東京芸大)彫刻科卒。同級生の舟越保武や本郷新(共に故人)らと新制作派協会(現・新制作協会)彫刻部を創立。44年に応召、旧満州(現中国東北部)に渡り、3年間のシベリア抑留の後に帰国した。
長女で女優の佐藤オリエさんをモデルにした「オリエ」(49年)や「群馬の人」(52年)をはじめ“佐藤忠良の首狩り”と言われるほど、初期は頭部像の制作に情熱を傾けた。代表作「帽子・夏」(72年)のような清潔感あふれる女性像、無邪気な子供像は幅広い人気を獲得。絵本のロングセラー「おおきなかぶ」(62年)の挿絵でも広く知られ、小中学校の美術の教科書作りにも関わった。
自称「粘土職人」。作品の多くは市井の人々をモデルにしている。「ドラマ性がない」と笑っていたが、自身はシベリアで壮絶な体験をしていた。このとき、人間をつぶさに観察したという。「権力や知識のある人より、手に職を持った大工さんや、普通の人の方が立派でした」。愚直な「職人」の姿勢は終生変わらず、70〜80年代に複数回打診があった文化功労者などについても「国からの栄誉はお断りする」との意思を貫いた。
60年高村光太郎賞、74年毎日芸術賞、75年中原悌二郎賞など受賞多数。81年、日本人として初めてパリの国立ロダン美術館で個展を開き、大きな反響を呼んだ。90年、故郷の宮城県美術館に佐藤忠良記念館が開館した。
創作意欲は衰えず、東京・杉並の広いアトリエで朝8時ごろから夜8時ごろまで、粘土と格闘する生活を送った。最晩年には等身像の制作こそ難しくなったが、新制作展には09年まで毎年、出品を続けていた。【岸桂子】